昭和41年9月13日 朝の御理解
                          末永静行(№41-103-A-1)


実意丁寧神信心、何事も信心にならせてもらい、すべての事を実意を以って大切にさせて頂くと、そういう事の内容が大事であると思います。例えて申しますならその内容が変わってまいりますと時に必ず願いの内容が変わってまいります、必ずお詫びの内容が変わってまいります、勿論御礼の内容が変わってくるはずです。
ただ、いっぺんにお道の信心は実意丁寧だと、実意丁寧神信心、実意丁寧に行き届く事だと、またお道の信心の祈りの内容と言うのは、お礼お詫び、そして願いと、その三つが祈りの内容になからなければならんと、ですけど、そのまた内容が、その内容がです、ね、私共の信心の理解によって、お詫びの内容が、お礼の内容が、願う事の内容が変わってくるのです。
願う事の内容が、例えて言うならば、最近、国武さんなんかは熱心にこうやってお参りになります、もうそれこそ、椛目の一番、本当に国旗でしょう、もう一番、まあ、一番始めに御神縁を頂かれた方です、奥さんの病気のことから。つい最近まではまた、まあ、いうなら願いのある時にお参りをしておられたというような感じの信心であった。勿論、願い事がないじゃない、ある。けれども、こうやって日々お参りをさせて頂いて、信心の稽古をさせて頂くという事がです、ここにこう言う一つの毎日という事に直面して初めて開眼した、この事によって信心が分からせて頂いて有り難うございますと言う信心に最近変わって行かれる、また、願いの内容が、同じ願いでも願いの内容が変わってくると言う、ただ商売をしておる者が商売の繁盛商売の繁盛を願うけれども、その繁盛の願いの内容が変わってくる。
本当に私共も信心は限りがないのですけれど、まあ、実意丁寧神信心させてもらなんならんばい、ね、どこまでも行き届かにゃならん、ね、もうその時にはですけれども、その内容、お道の信心は御礼とかお詫びとかお願いとかが意味の内容になっておると、もうそれだけの、なら自分の祈りの中にはお詫びもある、お願いもしよるお礼も申し上げよる、もうそれで済んだごとあるのですけれども、実際、その信心の内容によって願うことも詫びる事も、また、御礼を申し上げる事も内容が変わってくる、その辺が私は有り難い、だから、それだけの、いわば、信心がでけておると言うて、いわば、自分の願いと申しますね、自分だけが悦にいっておると言う信心では駄目なのです、ね。
神も助かり、氏子も立ち行くと言うおかげ、私はここんところをです、ね、神も喜びと言うておられる、神も喜び氏子も喜びと言う信心、神という事の中には天地金乃神の喜びもありゃ、金光大神の喜びもあるという事、同時に氏子の喜びという事、私共の喜び、その喜びあえれると、喜びあえれると、喜びで子守りをすると言う信心になからなければならん、どんなに広大なおかげを頂きましたと言うて、どんなにたくさんのお礼のお供えが出来たと言うてです、果たしてそれがただ自分のおかげを頂いたと言う喜びだけで神様はそのお礼に本当に喜んでくださったかどうかという事は分からん、ね。
神も喜び、氏子も喜び、喜びあえれる、喜びが一緒になる、ね、そう言う例えば信心でなからんとですね、すぐに良い物が生まれてまいりません、ね、それこそ、夢にも思わなかったと言うようなです、特別の良いものが生まれてまいりません。
神様と共に喜びあえれる、喜びあえれる信心でないとです、良いものは生まれません、ただ自分だけが落ち着いておるというだけでは良いものは生まれません。意味が分かられるでしょうか、そこで、私共の例えば願いとかお詫びとか、またはお礼とかと言う内容を一つ検討してみらなければいけません、ね。
今日は、十三日会でございますから、まあ、椛目の主だった方が今日全部ここに集まられるでしょう、本当にこの十三日会という会だけは誰も勧誘するわけでもない、私が宣伝するわけでもない、それでもこの会が始まって以来、何とはなしに十三日会に集まって、今は特別に良い話があるというわけではないけれども、ね、何とはなしにその雰囲気、いや、側におるだけでも楽しいと言う会を段々おかげを頂いていっておるという事、まあ、いうならば、好きな人の側におるだけでも楽しいと言うような感じなのである、それは、なぜそう言うような雰囲気が生まれてくるのだろう、ね、どうしてそう言うような特別な、いわば、雰囲気が十三日会にあるのか、ね、十三日会と言うものは、いわゆる、お互いがです、神様の願いに応え奉ろうとする会なのです、ね。
神様の願いに応え奉ろうとする会、だから、ここんところがですね、私は言っておるのはもういっちょ、あの、今日の御理解は皆さんいつもの事ですけれども初めての御理解なんですよ、お礼とかお詫びとか願いとか、実意丁寧神信心を頂かなきゃいけないとか、これはいつも頂きよるけれども、それは自分の実意丁寧神信心がでけておる、できておる、、行き届かせて頂きよると、お礼もお詫びもお願いもさせて頂きよる、お道の信心の祈りの内容というものは自分の信心の内容は備えておるように思っておるけれどもです、内容が変わってくるにしたがってです、例えば、私で言うならば、十年前の信心内容と今日の内容と言うのはお詫びをする事が、同じお詫びでもお詫びの内容が違うという事、お礼を申し上げておる事がお礼の内容が違うという事、お願いをしとることなんかは全然お願いの内容が違うという事、ね、それはどう言うような事であったかと言うとです、ね、神様と私共の中にです、ね、いわゆる、ただ神様の、今日の十三日会を神の願いに応えると言うんですけれども、その神の願いに応えるのでもです、神の愛、神愛に応えると言う信心になってきたからなんです。
今まではかいたところをかき合うような、いわば、信心になってきたという事なんです。自分がかきたいところがかいてからと言う信心ではなくてです、これは、いかに天地の親神様がです、ね、言うような事でも出来にならん神様ではないと、いわば、万能の神様であると言うてもです、神様だけではどうにもできない事がある、と言うて人間、私共氏子だけではなおさらどうにも出来ない問題ばっかりなのだと、ね、神様とてもです、人間にすがり人間に頼らなければどうも出来ない問題をお持ちになっておられるという事、いかに神様と自分では、自分のかいたところを自分でおかきになる事は出来ないと言うところがある、人間の手が届かないところがあるようにね、だからそこを分からにゃいけん、だから、実意丁寧に行き届いて、と言うだけではです、さぁー今行き届こうと思うても、その愛と言うものがです、分かり合えなければ出来んって、ね、神愛を分からなければ、ね、神愛を分からせてもらい、ね、神愛に例えば神の願いに応えると言うのが十三日会だけれども、そのただ神様の願いだけに応えるのではなくて、その応える内容がです、神の愛を分からなければ本当の神の願いが分からんという事です、ね。
参って神にすがる氏子は多いけれども、神様こういう事によってこういう事が分からせて頂きましたと言うて泣いて御礼を言う氏子が少ないとこう四神様は仰っておられる、ね、泣いてすがると言う氏子はあるけれども、泣いてこの事が分かりましたと言うてお礼を言う氏子が少ないと、ね。
私は例えば今日の十三日会でも、本当に日頃は神様の願いに応えて立つと言うようなことの願い事ばっかりで、教祖のお心に沿い奉ると言うようなことのできん私達であるから、せめて十三日の一日ぐらいは神様の願いに応えさせて頂こう、神様の願いに沿わせて頂こうと言うのが十三日会だけれども、せっかく神の思いに、神の願いに沿い奉るならばです、神様の心が分かって沿わなければ駄目だという事、神様の心といいや愛だけなのである、愛の塊なのだ、ね、その神様の愛に応え奉ると言う信心、そこから生まれてくるのが合楽なんです、ね。
神も喜び氏子も喜ぶ、喜びと喜びが交流する、喜びあえれる、その喜びこそがです、いよいよ、良い物が産み成されてくるところのおかげなのだと、広大のおかげを頂いて有り難しと、と言うておってもです、それが一人よがりの喜びであったり、神の喜びに繋がっていなかったら今の喜びであるならば、ね、それは自分よがりの喜びであり、信心であるという事を分からせてもらわなければいけない。ね。
今日の御理解をみなさん思うてごらんになってですたいね、本当に私は今度の、まあ、おそらくは合楽教会という事になるでしょうけれども、この合楽と言う感ながらな、まあ、その、教会名というな事なんかは、もう、神の願いがそこにあると言う気がいたします、ね、だから、なら神の願い応え奉ると言うても十三日会に集まって(      )じゃない、ね、だから、十三日会に集まってこなければおられない、いわば、物は何かと言うとです、ね、いわゆる、神の心は本当に分かる、神の愛を悟らせてもらう、それをなぜさすりしてもらう時だけの神の愛ではなくてです、叩かれる時でもその以上の神の愛を悟らせてもらい、その愛に私共が応え奉るその愛と愛をもって結ばれるという事、ね、そこんところに、いわば、合楽的なおかげなんです、ね、言うならば、ここからしか良いものは生まれてこないって、次の良いものは、これはどう言う物が生まれてくるか分からん、言うなら、男が生まれるじゃろうか、女が生まれるじゃろうか分からん、どう言う素晴らしい器量の良いのものが生まれかもそれも分からん、ね、私共が本当におかげを頂きたいのはです、そこから生まれてくるもの、ね、けれどもこれが一人で子供が生まれないように、ただ自分よがりの悦に言っておると言う喜びでは本当な事じゃない。
よくよく考えてみるとですね、自分だけ信じさせていただきゃおかげを受けますそれは、ね、それはどこまでもです、自分よがりの有り難さに酔うておると言うようなものしか感じられないです、その自分の喜びがです、神様の喜びに繋がっておる時に、初めて神様の痒い所に手が届いたという事になる。ね、言うなら、お互いに痒いところをもちおうても、その痒いところをです、いわば、ここですかここですかと言うて、本当に痒いところをかき合うようなもの、まあ、変な表現でございますけれどもです、ね、信心とはそう言うところに、そう言うところに実意丁寧神信心がなさられていかなきゃならん、お礼とてもお詫びとてもです、またはお願いとてもです、なるほどそうなって参りますともう願いの内容が変わってくるって、願う事が、ね、まあ、それは本当に尊い、有り難い事のようであります、ね、ですから、そう言うところが一つ一つ進んで行ったところでございますけれども。
昨日、吉井の波多野さんがあーして、毎日お参りになっておる、東京から娘さんが(       )帰ってみえて、夫婦で御主人が出張であると言うので帰ってみえられた、ですから、もうみんな、縁についておる子供達、それから遠方に行っておる子供達が四家族ですから、四家族ちいいや、もう本当に大人ばかり息子だけが四人、息子娘、それに、ならその婿さんたちもみんなついてから、もうこんなあのような狭い所にまあ、私は行った事はないですけど自分でそういわれるですけど、、その、まあ、とにかくお家が一杯、そして、もう、一番御長男の亙(わたる)さんガラスをしております、もう嫁さんも一緒来てから、日頃はそうでもないけれども、もうあーやって兄弟とずうっといますと、今の栄子さんと言う、もう栄子さんじゃなからねければ出来ません、もう(     )嫁子としてから、もう何からかにまで行き届いてこうやってくれます、そう言う雰囲気の中にあってです、本当にこの人達がもう一人ひとりがです、家族の引き寄せを頂いてから、これだけで皆信心の稽古ができるようになったらどんなに有り難い事だろうかと、日頃の私の願いはもうここにおいとりますと言うて、言うておられました、けれども、本当の素晴らしい言葉なんですよその願いは、ところがよくよく考えて御覧なさい、これはね、もう本当に素晴らしい事ですけれども、自分が一人がいよいよ悦にいっとるだけの信心なんですそれでは。ね。
私は今日の御理解にはもっともっと具体的な例をもってしたいんですけれども、やはり皆さんも良く考えて練って頂かなければなんにもなりません、(              )、ね、もう本当に練っていって、自分、自分の、例えばその波多野さんの願いと言うのは私が聞いたっても素晴らしい、本当にもう有り難い、いわば、神様もその願いをです、まあ、ほほえましもうとして見たり、聞いたりするに違いはない、いわば、そう言う願いと言うものは。けれどもそれはですね、よくよく分からせて頂くとです、それは自分よがりの信心なんですよ、そして、この子がおかげを頂くようになりました、この人達も夫婦ながら(           )と言うてもです、ね、それは、今日、私は申します、神の愛に応えるというような願いに応えるといったようなおかげじゃないのですよ、ね、してみるとです、そう言う願いを一生の願いとしておりますというような願いが、私がいう今日の信心を分かって来る、まあ、そう言う願いなんかはある意味合いでは問題がなくなってくるという事です、ね、そういう事がどうでも良いという事ではない、けれども、もう二の段である、三の段であるという事なんです、ね。そして、ここが分かれば当然そうなってくるに違いはないと言う、それはもう約束されたようなおかげなのです、そう言う事。だから、それよりももっともっと、ね、おかげを頂かせてもらって神の願いに応えると言うけれどもです、その神の願いに応えるという事がです、ね、神の愛をこちらが悟らせてもらって、神の愛を分からせてもらわなければです、本当な事ではないと、そこから、私共の祈りの内容と言うものが変わってくる、ね、そこに、例えば十三日会に生まれてくるあの雰囲気がもっともっとです、ね、何も別にお話はないけれども、何とはなしにこうやって好きな人の側に、おるだけでも楽しいと言う、あれがもっともっと未知なる雰囲気になって生まれてくるでしょう、ね。
これがいよいよ接触しあう時に、それが触れ合う時にです、そこから生まれてくる味わいと言うもの、また、そこから生まれてくる良いものというものがです、頂けれるのは私いろいろこう思う、あの人のおかげを受けられん、本当のおかげになってこないのはこう言う、あれだけ熱心になるけれど、結局、その、そう言うところが分からんからだなと言うふうに、まあ、今日はいろいろ今日の御理解を頂いてみてから(           )事だけではありません、私の知っておる限りの、いわば、先生方の場合なんか、教会の場合なんかを思うて見たんです、そして、本当に御比礼を受けられたと言う教会がです、もう確かに神様の愛に結ばれてござる、その人と愛と神様の愛が結ばれておる、そして、あー言う御比礼が生まれてきておる、あげん忠実で、あげんまじめで、あげん、いわば、信心を分かってござるのにおかげを受けられん、本当の御比礼が生まれてこないのはです、結局自分分かってござる、ただ悦に言ってござるだけの事、自分だけが喜んでござるだけの事、いわゆる、神様と一緒に喜びあえれると言うものがないという事、だと言うようなことを感じたんですけれど。
皆さん、今日の御理解を頂かれてからです、本当にここ、もう一遍にという事は出来ません、一段、そこんところの信心を進められる、高められる、神様と共に喜びあえれる信心、神様の願いと言うのが、椛目にきておられる神の願いというのがです、どうでもそこんところのおかげを頂き合いたいと神様が願うておられると、合楽のおかげを頂きたいと思うておられると、いうなら、必ず私共は例えばいうなら向こうを向いたような信心ではいつまでたってもそこに合楽的喜びというものは生まれてこない、ね、合楽的喜びに浸らなければです、良い物が生まれてくるはずは勿論はありませんですね。
                            どうぞ。